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三三蔵祈雨事 

 

拝読御文

夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、本より生いて候木なれども根の弱き

は・たうれぬ、甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・た

うれぬ

 

本抄について

本抄は日蓮大聖人が、建治元年(1275年)あるいはその翌年に身延で著され、駿河国(静岡県中央部)富士上

方西山郷に住む西山殿に与えられたお手紙です。

当時は、第1次の蒙古襲来(文永の役、1274年)の直後であり、人々は再びの襲来を恐れ、不安の中にありま

した。危機感を募らせた幕府と朝廷は、蒙古を調伏する祈禱を各地の有力寺社などに命じましたが、そこで広く行

われたのが、真言密教による加持祈禱でした。

大聖人は諸御抄で、真言の教えが空虚なものでしかなく、しかも成仏の根本の教えである「一念三千」を盗み取っ

ていることを指摘されています。本抄では、真言を依り所とすれば日本は亡国の危機に直面すると訴えられていま

す。

真言の教えは中国から日本に伝わりました。題号の「三三蔵」とは、中国真言宗の善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空

三蔵のことです。この3人が祈雨を行い、雨を降らせますが、大風が吹いて、かえって国土を荒らしたことが本抄

で述べられています。

拝読御文は本抄冒頭の一節であり、成仏のためには「善知識」という縁が何より大切であることを教える例えにな

っています。

 

善知識とは

日蓮大聖人の仏法の信心は、常に同じ志を持つ人々と共に切磋琢磨しながら貫いていくべきものです。大聖人の仏

法には、自分一人だけの信心ということはありません。

拝読御文で仰せの通り、木は強い添え木があれば、大風にも倒れることはなく、一方で根が弱ければ倒れてしまい

ます。また、強くない者でも、助ける人が強ければ悪い道でも倒れず、一方で頑健な者でも、独りであれば悪路で

倒れてしまいます。

このことを例えとして大聖人は、仏道修行にあっても、仏道に正しく導き入れてくれる人が不可欠であることを教

えられているのです。

このように人を仏道に導き入れ、信心を励まし、支えてくれる師匠や同志のことを「善知識」といいます。善知識

は「善き友」の意味です。「知識」とは仏教用語では、友人、知人を意味します。

人間の心は揺れ動きやすく、仏道修行の途上においても、ともすれば自身の弱さに負けて信心の実践を怠ることが

あるかもしれません。そこで必要になるのが、常に正しく仏道に導き、信心を触発してくれる善知識なのです。

大聖人は拝読御文のすぐ後で、「仏になるみちは善知識にはすぎず」(御書1468ページ)と仰せです。そして

「我ら凡夫の智慧が何の役に立つだろう。ただ熱さ寒さを知るだけの智慧さえあるならば、善知識を求め、成仏す

ることが大切である」(同ページ、趣旨)と教えられています。

また法華経の妙荘厳王本事品第27には、妙荘厳王にとって浄蔵・浄眼の2人の息子が王を仏道に導き入れた善知

識であったことが述べられ、善知識が衆生に仏道を求める心を起こさせることが示されています。

さらに大聖人は「一切衆生に仏性があるといっても、善知識という善縁に出あわなければ、その仏性を悟ることも、

知ることも、顕すこともできない」(同574ページ、趣旨)と述べられています。善知識という縁に触れること

で私たちの生命に内在する仏性は顕れるのです。

仏道修行を成就する上で、善知識は欠かすことができません。ゆえに大聖人は、「仏になるみちは善知識にはすぎ

ず」と断言されているのです。

 

すすんで「善き友」を求める

一生成仏を果たす上で、善知識の存在は不可欠です。しかし、善知識にあうことは容易ではありません。

日蓮大聖人は本抄で、末法においては、悪知識は大地を微塵に砕いた数よりも多く、善知識は爪の上に乗るわずか

な土よりも少ないと仰せになっています。

善知識の反対が「悪知識」であり、これは、人を正法から退転させる働きをする者を指します。

末法において善知識が数少ない存在であったとしても、だからこそ、あい難い善知識を、すすんで求めていくこと

が大切になるのです。

末法には悪知識が充満する以上、私たちは悪知識にたぶらかされることのないよう、警戒しなくてはなりません。

この悪知識について、涅槃経には次のように説かれています。

“ たとえ凶暴な悪象に殺されるとしても、それは何ら恐れることではない。なぜならば、たとえ自身の肉体が破壊

されることがあっても、自身の心は破壊されていないのだから、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることは決して

ない。しかし、悪知識によって心が破壊されたら、必ず三悪道に堕ちる因を作ったことになる”(御書7ページ等、

趣旨)

「悪象に殺される」とは、現代でいえば、交通事故や災害に遭うことなどに当たります。

また大聖人は、悪知識の働き掛けについて『悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取

って善心を破る』(同7ページ)と、その本質について述べ、注意を促されています。

ただし、諸御抄を拝する時、大聖人は、悪知識に従ってはならないと教えられる一方で、仏道修行を妨げる悪知識

をも、自身の成仏への機縁とする強盛な信心に立つべきことを御指導されています。

気を付けなくてはならないのは、悪知識に信心を破られることです。悪知識と戦うことで自身の信心を強盛にする

ことができれば、それは悪知識を善知識に変えたことになります。

いずれにせよ、善知識の集いである創価学会の中で信心を貫くところに、善知識の重要性を強調された大聖人の仰

せ通りの信心の姿勢があります。このことを銘記して、どんな時も師匠や同志と共に広布へ進んでいきましょう。

 

 

SGI会長の指針から 創価学会の中で互いに切磋琢磨

 

凡夫が自身に内在している仏性を開くには、仏という最高の善知識が必要です。それゆえに、「されば仏になるみ

ちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん」と仰せなのです。

大聖人は、法華経以前の菩薩、あるいは二乗は、善知識とはならないことも指摘されています。真の慈悲と完全な

る智慧がなければ、一切衆生を仏にすることはできません。

そして、この善知識に巡りあうことが、いかに稀であるかを強調されるとともに、末法は、悪知識が充満している

時代であることを教えられます。

彼らは、“天を地と言い、東を西と言い、火を水と教え、星は月より明るい、蟻塚のほうが須弥山より大きい”など

と語り、民衆の心をたぶらかしてしまう。(中略)

大聖人は『正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知って邪悪の師を遠離し正善の師に親近すべきなり』(御書

1340ページ)とも仰せです。

邪悪の師を見破り、正善の師を求めていく――破邪顕正の戦いを教えられています。

末法における「正善の師」とは、法華経の行者であることは、言うまでもありません。

本抄は、「悪知識」すなわち「悪師」を鋭く見破り、「善知識」すなわち「善師」と共に戦うべきことを呼び掛け

られている御書です。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第15巻)

◇ ◆ ◇

「信心を学び、勇気をもって実践していくには、人間対人間の触発、啓発が不可欠です。同志が集い合っては、仏

法の教えを語り合い、確認し合っていく。それによって、“よし、頑張るぞ!”と決意し、新しい挑戦の歩みを踏み

出すことができる。

(中略)

成仏のためには、善知識といって、仏道へと自分を導き、励ましてくれる人の存在が必要なんです。その切磋琢磨

し合う姿を、大聖人は『互につねに・いゐあわせて』と言われているんです。

この通りに実践しているのが、学会の組織です。その組織のなかにあって、『ひまもなく後世ねがわせ給い候へ』

――怠りなく修行に励み、三世永遠の幸福を願い、広宣流布の誓願に生き抜くことが大事なんです」(小説『新・

人間革命』第27巻「激闘」の章)

 

 

 

 


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