拝読御文
『いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば
地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来か
た是等の衆を教化す」とは是なり』
(御書全集 1360ページ6行目~8行目 編年体御書 549ページ6行目~8行目)
人を救う尊い使命に生き抜こう
本抄について
本抄は、文永10年(1273年)5月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡で著され、最蓮房に与えられたお手紙とされ
ています。
最蓮房は、天台宗の学僧でしたが、何らかの理由で佐渡に流され、そこで大聖人の弟子になったと伝えられていま
す。
本抄は、法華経方便品に説かれる「諸法実相」について、諸法がそのまま実相であること、すなわち地獄界から仏
界までの十界の衆生及びその住む世界(諸法)が全て妙法蓮華経(実相)の姿であることが示されています。
拝読御文では、大聖人の門下となり、大聖人と同じ心で広布に進む人もまた、法華経に説かれる地涌の菩薩である
ことが述べられています。
「法華経の行者」とは、万人成仏の法である法華経を身で読む人です。身で読むとは、法華経に説かれる通りの難
に遭いながら法華経を弘めていくことをいいます。
拝読御文で日蓮大聖人は、まず、門下も自らと同じように法華経の行者として生き抜くことを教えられています。
大聖人は、竜の口の法難で発迹顕本し、末法の御本仏としての境涯を顕されました。このことは、大聖人と同じよ
うに何があろうと法華経の行者として広布に生き抜くことで、仏界の生命を涌現できることを示しています。
その上で大聖人は、末法の民衆のために、妙法と一体の御自身の生命を御本尊に顕し、私たちが御本尊を拝して仏
界を現す道を開いてくださいました。このことを踏まえると、何があっても御本尊根本の信心で広布へ進むことが、
法華経の行者として生き抜くことにあたります。
拝読御文では続けて、「日蓮が一門となりとをし給うべし」とあり、大聖人の弟子としての信心を貫く大切さを教
えられています。ここには、門下に何としても成仏の道を歩み抜かせたいと願う大聖人の大慈悲を拝することがで
きます。
池田SGI会長は「日蓮が一門」の自覚に立つということについて、「学会と運命を共にし、広宣流布への異体同
心の世界に生き切ること」と述べ、その理由について、創価学会が、御書に仰せ通りの実践をし、三類の強敵と戦
っている唯一の広布実践の団体だからであると示しています。
民衆の幸福をどこまでも願われた大聖人の御精神の通りに、仏法を実践し、弘めているのが創価学会です。この創
価学会の中で信心している誇りを忘れず、自身の一生成仏と広宣流布のために信仰を貫く大切さを心に刻みましょ
う。
法華経28品は、途中から説法の場が霊鷲山から虚空に移ります。この虚空会では、釈尊の滅後、とりわけ末法に、
法華経を誰が弘通するのかがテーマになります。
法華経では、滅後の正法弘通を勧める釈尊に応えて、さまざまな菩薩たちが弘教を誓いますが、釈尊は、その願い
を退けます。そして、無数の菩薩を大地の下から呼び出します。この地涌の菩薩が登場したことがきっかけとなり、
釈尊は久遠の昔から仏として、この地涌の菩薩を教え導いてきたことを明かすのです。
釈尊滅後、とりわけ悪世末法に正法を弘めていくのは、容易なことではありません。しかし、妙法を弘めていくこ
とができなければ、仏の願いである万人の成仏を現実のものとすることはできません。
地涌の菩薩には、いかなる困難も乗り越えて妙法を弘めていく資格があるゆえに、釈尊は、他の菩薩たちの申し出
を退けて、地涌の菩薩に悪世末法での広宣流布の使命を託したのです。
地涌の菩薩は、法華経に登場する他の菩薩とは全く異なります。それは、久遠の昔から常に釈尊に教化され、すで
に妙法を持って説いていて、仏の境涯を開いているからです。法華経には、地涌の菩薩の姿は釈尊よりも、はるか
に立派で気高いと説かれています。
法華経では例えば、地涌の菩薩が、問答に巧みであり、恐れる心がなく、また忍耐力や智慧が優れ、仏道への志が
堅固であると述べられています。
そして、地涌の菩薩に末法広宣流布の使命が託されたことは、末法に妙法を弘通する主体者は、あくまでも地涌の
菩薩にほかならないことを示しています。こうして法華経の説く通りに、末法における妙法弘通の先駆を切った方
が日蓮大聖人です。
大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」
と仰せです。
命に及ぶ大難をも乗り越えて敢然と広布に進まれたのが大聖人です。この大聖人と同じ心で広布に進む人は、皆が
地涌の菩薩にほかなりません。
結局、地涌の菩薩であるということは、法華経に照らせば、どんな困難に直面しても、それを乗り越えて広宣流布
を進めていく使命と力を持った尊い存在であるということです。
ここで大聖人は「釈尊久遠の弟子」と仰せですが、これは大聖人門下の立場からは、末法の御本仏である大聖人の
弟子としての信心を貫く大切さを教えられたものと拝されるでしょう。
地涌の菩薩の尊い使命を自覚し、また、その偉大な力を発揮しながら、自他共の幸福を実現する広布の活動に前進
していきましょう。