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「三三蔵祈雨事」

 

背景

本抄は、建治元年(1275年)もしくはその翌年に、日蓮大聖人が身延の地で著され、駿河国(静岡県中央部)

富士郡の西山に住んでいた西山殿に送られたお手紙です。西山殿の一家は、大聖人の直弟子・日興上人とゆかり

の深い一家であり、厳しい風当たりの中で信心に励み、たびたび御供養をお届けしています。

本抄を御執筆された当時は、かつて大聖人が予言された蒙古襲来が「文永の役」として現実のものとなった直後

であり、人々は再度の襲来を恐れていました。

危機感を募らせた幕府は、蒙古調伏の祈とうを有力寺社などに行わせます。そこで広く行われていたのが、大聖

人が“亡国の法である”と諫めていた真言密教による加持祈とうでした。ゆえに大聖人は、本抄の中で、“このまま

真言の教えを用い続ければ、亡国は間違いない”と警鐘を鳴らされています。

 

大意

まず、成仏するには、善知識という縁が何よりも大切であるが、末法の悪世では、正邪を転倒させて教える悪知

識が無数にいる一方、善知識に巡り合うことは極めて難しいと仰せです。

そして、善知識と悪知識を判別するには、道理と証文が大切であるが、より大切なのは現証であると述べられた

上で、中国真言宗の善無畏・金剛智・不空という3人の三蔵(三三蔵)の祈雨が、かえって国土に災難をもたら

したという現証を示され、真言が亡国の法であることを明らかにされます。

また、日本では、国中の人々が、弘法・慈覚・智証の誤りによって、真言の邪義に惑わされてしまったと厳しく

断じられます。

「末法において、邪法の僧らが権力者と結託して正法の行者を迫害すれば、諸天善神が隣国の賢者の身に入って

責め来たり、その国は亡ぶ」と経典に示されているとおり、今の日本は、大聖人を迫害することによって亡国の

危機を迎えていると述べられます。

ここには“亡国の危機にある日本を救うのは日蓮以外にいない”との御洞察と御確信が込められています。

最後に、西山殿の信心をたたえ、宿縁の深さを示されるとともに、師匠である釈尊をひたすら求めて仏になった

須梨槃特のように、真っすぐに善知識を求め抜く信心を促されています。

 

善知識・悪知識

善知識の「知識」とは、「友人」「知人」のことです。仏法の正しい道理を教え、仏道に導く人を善知識といい、

反対に、私たちを信心から遠ざけ、信心を破る存在を悪知識といいます。

日蓮大聖人は『三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕る

』(御書574ページ)と仰せです。私たちの生命には、もともと仏性(=仏になる性分)が具わっています

が、その仏性は「善知識の縁に値」うことによって顕れるのです。

今日、大聖人の仰せ通りに広宣流布を進めている団体は、創価学会以外にありません。信心のあり方を教えてく

ださる創価三代の会長や、ともどもに広布に邁進する同志、さらには同志の集いである創価学会の組織自体が、

自身を仏道へと導いてくれる「善知識」(善き友)です。

反対に、仏道修行を妨げ、私たちの信心を破壊するのが「悪知識」です。その恐ろしさについて、大聖人は涅槃

経の文の趣旨をとって『悪象等に於ては畏るる心なかれ悪知識に於ては畏るる心をなせ、何を以ての故に悪象は

但身をやぶり意をやぶらず・悪知識は二共にやぶる故に』(同1209ページ)と仰せです。

悪象等に身をやぶられること(現代でいえば、交通事故に遭うなど)は、仏の眼から見れば、肉体を破壊される

ことであるが、心を破壊されることはありません。しかし、悪知識にたぶらかされてしまえば、心身共に破壊さ

れてしまう――。ゆえに悪知識を恐れなければならないのです。

悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取って善心を破る』(同7ページ)とある

ように、悪知識は、仏法を求めようとする善なる心を言葉巧みに破ろうとしてきます。その本質を見抜き、決し

てだまされてはなりません。

末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識は爪上(=爪の上)の土よりもすくなし』(同1468ペ

ージ)

末法には、悪知識が充満しています。そうした悪知識に近づかないことが大切であることは言うまでもありませ

んが、決してそこから逃げ出すような消極的な行動を勧めているわけではありません。

大聖人は、釈尊の命を狙った提婆達多について『釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ』(同9

7ページ)と仰せになり、さらに『今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よく

なしけるなり』(同ページ)と述べられています。

信心を妨げるさまざまな障害や困難が現れたとしても、そこから一歩も退くことなく戦えば、自身の信心を一層

強め、境涯を高めていくことができます。

諸の悪人は又善知識なり』(同962ページ)  強盛な信心を根本に戦い、勝利することで、「悪知識」を

「善知識」に変えることができるのです。

 

三証

今回学ぶ範囲の中で、日蓮大聖人は『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証

にはすぎず』(御書1468ページ)と、理証(道理)、文証(証文)、現証の「三証」を挙げて、その中でも

「現証」がとりわけ大事であると教えられています。

人々を絶対的な幸福に導く正法を判定するための“基準”が三証です。

「文証」とは、その宗教の教義がよりどころとなる経文、聖典の上で裏付けをもっているかどうか、ということ

です。

日蓮大聖人は『経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり』(同482ページ)と仰せです。

文証に基づかない教義は、己義(自分勝手な考え、教え)にすぎません。経文上に明確な根拠のある教義を用い

るべきであり、経典によらない教えを用いてはならないと戒められています。 

仏教であるならば、釈尊の教え、すなわち経典に基づく教えでなければなりません。 

私たちの場合でいえば、文証とは、大聖人の「御書」に基づいているかどうかです。

「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。

仏法と申すは道理なり』(同1169ページ) 仏法はどこまでも道理を重んじるのであり、道理に外れた主

張を用いるべきではありません。

「現証」とは、その宗教の教義に基づいて信仰を実践して、現実生活において結果が現れるかどうか、というこ

とです。

冒頭の御文で仰せのとおり、日蓮大聖人は三証の中でも現証を最も重視されました。

私たちの仏法の目的は現実の変革であり、幸福の実現です。ゆえに信仰を実践することで具体的な「勝利の実証」

を得られるかどうかを、宗教の高低浅深を判断する基準として重んじるのです。

この三証のうち、どれか一つが欠けても、正しい宗教とはいえません。

薬に譬えれば、成分表や効能書きがあり(文証)、効き目がある確かな理由があり(理証)、実際に服用して、体

が回復するという明確な結果が出てこそ(現証)、有効な薬といえます。

理論のうえでも、現実のうえでも、だれもが納得できる客観的、普遍的な根拠を持つ日蓮仏法を実践し、功徳の花

を咲かせましょう。

 

 

 


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